文楽に魅せられて
文楽との出会い
 由遊庵の添田さん、石井さんとの突然の出会いから、わずか1週間後、初めて「文楽」という舞台芸能を国立劇場で見た。人形浄瑠璃、近松門左衛門、井原西鶴、忠臣蔵、三味線、義太夫など、一つ一つを点としては知っていたが、今日始めて、一本の線で繋がった。そして、文楽の魅力にすっかりはまってしまった。
 今日は、文楽鑑賞教室という催しであったから、文楽についての説明があり、初めて鑑賞する人にとっても、なかなか味わいの深いものとなった。
 「文楽」の世界は、人形、義太夫節、三味線の三要素から成り立つもので、その調和がおりなす不思議な世界であった。

文楽は、「人形」を何故三人で操る(三人遣い)のか?
 「主遣い」は、左手で人形の首(かしら)の胴串(どぐし)をもち人形の表情や全身の動きを表現する。そして、右手で人形の右手を操作する。悲しみ、怒り、喜びなど様々な動きを胴串に入れた左手で操作するのであるから、大変な技術である。
 「左遣い」は、右手で人形の左手を操作し、左手で小道具などを動かす。左遣いは、主遣いの操る人形の右手の動きから指令を受けて、人形の左手の動きを作りだすという、とても細かい意気のあった動きである。その指令をよみとるという難しさも文楽の世界の特徴といえる。
 「足遣い」は、両手で人形の両足を操る。男人形には足があるが、女人形は足がなく、長い着物の中で女性の膝の動き、つま先の動きなどを両手で陰描写のように表現する。
 この人形を操る人たちは、まず「足遣い」を10年経験し、「左遣い」を10〜15年経験し、やっと顔が舞台にはっきりとでる「主遣い」10年という修行期間を経ている。20歳から始めても50歳までかかる修練の期間である。それだけに、その三人の操る人形の精緻な動きを鑑賞し、感動することができると思う。その動きはまるで、生きた人間のように、命を吹きかけている。人形の指先まで伝わる細かい芸能を是非多くの人に堪能してほしいと思う。

義太夫節と三味線の効果
 太夫は、腹帯を何十にも巻き、砂袋に小豆などの豆をたくさんつめてお腹に入れる。そして、尻ひきの上に尻をのせ、つま先立ちの正座をする。これらは、すべて腹式呼吸で声を出すためのものである。そして、どんな大きな劇場でもマイクを使わず、肉声で語りあげるためである。太夫は、情景、老若男女の人物、事件の背景などを一人で語りあげる。今回の文楽鑑賞教室では、笑いの表現方法から、「世話物」「時代物」の見分け方が紹介された。「笑い」の一つをとっても演じ方の工夫がなされているのは驚きであった。
 三味線は、太棹(ふとざお)が用いられ、撥も象牙でできた分厚いものが使われていた。三味線の糸は絹糸で作られ、撥の摩擦できれてしまいやすい。象牙の撥は、絹糸と微妙な摩擦を起こし、音色も豊かであるため、使われている。三味線引きは、太夫の語りに絶妙な掛け声入れ、音で人形の動きを表現する。その音色は、男女の性別を分ける、町民の女かお姫様かまでを分けるものである。今まで、三味線の音色にこのような趣があるとは知らなかった。今話題の吉田兄弟が作り出す三味線の世界とは全く異なるものであった。また、新しい三味線の魅力に出逢えた。

伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ) 火の見櫓の段
 物語についても大変趣深いものであるが、何よりも人形遣いが姿を見せないで、人形が一人で櫓を登っていくシーンが大変すばらしい。火刑を覚悟で、櫓を登り鐘を鳴らすお七という女が愛を貫くたくましさ、せつなさが漂う作品であった。

仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら) 祇園一力茶屋の段

 年末になると、毎年、忠臣蔵という物語は、必ずといっていいほど上演・放送がなされている。今回のように部分的にクローズアップした上演を見たのは初めてであった。もしも、部分的にクローズアップするとしたら、討ち入りの部分になるであろうと想像させられるが、今宵は由良助(大石内蔵助のこと)が、毎夜祇園で遊興にふけり、じっと仇討ちまでのときを過ごす段であった。そのストーリに感動するというよりも、由良助がどこにどのような敵が潜んでいるかもわからないから、本心をあかさず、巧みにはぐらかすその言葉づかい、細心の注意を払う様など、一つ一つの意味の深さにただただ感動した。最近、コーチングというアメリカの会計士が作ったとされる理論を読み聴きしているが、日本の古典の中にそれを超越する素晴らしい話法があることに改めて、日本の古典の魅力を痛感した。たとえ同じ段でも見れば見るほど、新しい魅力を感じることができるこれが「文楽」ではないかと思った。
 1702年12月14日の討ち入りから300年目の2002年12月8日にこのような奥深い上演と出逢えたことに感謝している。



〜素晴らしい世界は果てしなく〜 阿部至幸展 著
邦楽に親しむ会
由遊庵